フラー教授のもしも −ベクタへ移住編−
第一章 アドニス
*アドニス(Adonis)
福寿草(ふくじょそう)と呼ばれる花。
花言葉は、(永久の)幸福、幸せを招く、回想、(悲しき)思い出。 <雑学花言葉より>
私は夢に苛まれていた。
暫しの辛い時間が過ぎ、私はようやくその悪夢から目を覚ました。
「……夢、か」
いつものことだった。最近は魘されるような悪夢ばかり見続けている。
決して内容を覚えている訳ではないが、辛く、目覚めはいつも最悪なのだ。
そしてその理由も恐らくははっきりしている――私のこの”体”だ。
局長には未だにこの事実を話してはいなかった。
話せば当然クビだし、だからと言ってこの状況から脱する自信も無い。
このマージ家にいる限り、きっと私は一切のダイエットも出来無いだろう。
正直痩せることは半ば諦めているのだが、だからと言って局長へ真実を語ることに推進をかける訳でも無い。
私はいつものように体を捩らせ、ベッドから降りた。
少し前までは普通に起きれたのだが、今のこの体では腹の肉が邪魔をし、上半身を起こすことが不可能なのだ。
昔は何故こうなってしまったのだろう、早く痩せなくてはと焦ったものだが、
この環境に慣れてしまってからは、そんなことはどうでも良くなっていた。
「あら、先生、おはようございます」、ハリアさんが言った。
「おはようございます……」
「先生、最近元気がないですね。何かありましたの?」
「いや、気にしないでください、ハリアさん」
私は食卓に並べられた料理に手を付けた。
何故だかは分からないが、いつもより美味しくは感じられなかった。
「フラー先生、ワシ達はあなたを一匹の家族として向かい入れている。
だからこそ、何か問題があるなら躊躇せずに言ってもらいたい」
ダグラスさんが真剣な眼差しで言った。
「いや、本当に何も無いんです。最近ちょっと疲れが溜まっているだけですから……」
そう言い残し、そそくさと朝食を済ませ、私は学校へと向かった。
せっかくマージ一家の家に住まわしてもらっているのに、これじゃあマージ家に迷惑をかけっぱなしだ。
だけど、一体局長に何と言ったらいいのだろうか。私は心の中で葛藤した。
いつも通り学校に着き、いつも通り授業をこなし、いつも通りコープ君達と昼食を取り、いつも通り家路に向かった。
今日こそは、いつも通りになってはいけない……何としてでも、この壁に挑まなくてはならないのだ。
私は勇気を出して、局長に連絡することを決意した。
道端を外れ、小さな公園へと足を踏み入れた私は、辺りに誰もいないことを確認し、ベンチの上にフラグメントを置いた。
私はいつもの容量で、局長と連絡を繋げる過程をこなしていった。
「フラー調査員、君が定時連絡以外に連絡を入れるなんて珍しいじゃないか」
「はい。実は重要な話がありまして……」
「私はこれから会議に出なくてはならない、出来れば時間を無駄にしないで欲しいな」
「実は……」
いざ本番となると、思うように声が出なかった。
「……どうしたんだね? 私はこれから会議と言っただろう?」
「あ、はい。実は――」
勇気を出し、私は自身の出来事について述べた。
最初はとても躊躇いがちだったが、話して行くにつれて、徐々にその束縛から解放されて行った。
「……確かに君の声がくぐもっていたのに、少しばかし猜疑していたのだが――まさかそんなことがあったとはな」
「今まで黙っていて、申し訳御座いませんでした……」
「正直、優秀な君を手放したくは無い。だが私は、”障壁の海”の名に恥じないようそれなりの手段を取らなければならない」
「ええ、覚悟は出来ています」
「……フラー調査員よ、君をスフィアから解雇する。たった今、この場でだ」
一瞬考えたのち、局長が私に最善の行為を尽くしていることに気が付いた。
もし仮にも私がこのままの状態で本国に戻れば、この”肉”体を非難され、私自身が傷つくことは明らかだった。
私は、局長の最高の御厚意を確と受け取り、最後にこう述べた。
「……ありがとうございます、局長――今まで、お世話になりました」
やがて連絡が途絶えた。暫くの間、私はベンチに座り、既に通信が切れているフラグメントを見つめた。
(良かったんだ、これで良かったんだ)
私は自分に囁きかけた。
「ただいま」
「あ! せんせーい、おかえり〜!」
コープ君が明るく出迎えた。
私は彼に微笑み、おかえり、と抑揚に言った。
「あら? 学校で何か良いことがあったんですか?」
「え? あーいや、別に特に大した事は無いですよ、ハリアさん」
ハリアさんとダグラスさんにもニッコリと微笑み、私は自分の部屋へと入っていった。
(……全てを明かしたら、何だか気が楽になったな)
部屋に入ると、私は暫く部屋を、改めて一瞥して見た。
あれから随分と経ったけど、本当に色々なことが起きたな……
大怪我もしたし、大会に出場して優勝もした。それに、生まれて初めて”料理”という偉大な存在価値にも気付いた。
私はここに来て、同時にゲームのリセットボタンが押されていたように思えた。
それはまるで、ここで新しい竜生が始まるかのような感じだった。
私は考えていた。スフィアから解放された自分は、これからどうすればいいのかと。
その中で一番の問題は、このままマージ家に居座るかどうかだ。
正直私としては、あまりマージ一家に迷惑はかけたくは無いのだ。
だから私としては、マージ家に居候するのでは無く、そろそろ自分を家を持ちたいと思っていた。
そして恥ずかしい話、ここへ来てから私は、食事というものにすっかりはまってしまっていた。
確かにハリアさんの作る料理はおいしいが、話によるとベクタの料理はもっと美味しいそうだ。
だから私は、ベクタへの移住計画を考えていた――が、仮にそうなると、私は”先生”という職業を辞めなければならない。
つまり、ベクタへの移住には二つの問題があるのだ。
一つは家、二つ目は収入源だ。さて、これはどうしたものか――
「せんせー? もう30分経ちましたよー?」
「……ん? ああ、悪い悪い」
私はすっかり物思いに耽っていたらしい。
30分のテスト時間を生徒に与えたのにも関わらず、その時間は一瞬に過ぎ去っていた。
「あー……じゃあ答案用紙を回収するので、後ろから前に渡していってくれ」
授業も終わり、私は自分自身の課題に取り組んだ。
ベクタで暮らすにはどうするべきか。まず手始めに、それなりの知識を付けて置くべきだろうか、と。
そこで私は、すっかり空いた午後の時間を利用して、古代図書館でベクタの文献を探すことにした。
私は近くの駅、竜学前から、古代図書館前までの列車に乗った。昔なら歩いてでも行けただろうが、最近は少々辛いので歩くのは止めた。
間も無く列車が古代図書館前に到着し、私は図書館へ向かった。
そして図書館に着くと、ラハブさんという館長が私を出迎えてくれた。
「ようこそ古代図書館へ。私は館長をしているラハブと申しますー。何か御用で?」
「あのー、ベクタに関する文献はありますか?」
「ベクタ、ですかー……少々お待ちを」
館長が立ち並ぶ書棚の奥へと消えていったので、私は近くにあった椅子に腰掛けた。
一体ベクタとはどういった所なのだろうか。
ベクタは料理が最もうまい国だと聞いているが、他にも最も太った竜群、”肉塊竜”という竜が存在すると聞いている。
それは料理全般に使用されているメートルアグという草と、私が太った原因の一つであるアスターゼ草が、そうなる原因の内だという。
(そういえば私にアスターゼ草を進めたのも、ベクタ竜であるリガウ君だったな……)
ふと音が聞こえたので我に帰ると、奥の方から本をいくつか積んだキャスターを押している館長の姿が見えた。
「この図書館にあるベクタ関連の文献は、これが全部となりますー」
「あ、これはどうも。ありがとうございます」
「いえいえー。ごゆっくり閲読していって下さい」
私は、館長が持ってきた書籍を読んでいった。
特に本の数が多い訳ではなかったので、私はちょっぴり自慢の速読を駆使し、あっという間に本を逐次読了していった。
ようやく全ての文献を読み終えた時、外はちょうど黄昏時だった。
私はラハブさんに本を返した後、古代図書館前で列車に乗って、地下鉄へと乗り換えながら、家路へと向かって行った。
その途中、私は図書館で得た知識を吟味していた。
まず分かったこと、それはベクタでの第一次産業がかなり盛んであるということだった。
つまりベクタは農業国家と言うことが出来る。ではいっそ、ベクタで農家を営むのはどうだろうか。
文献を参考にした限り、あまり悪く無い選択に思える。
それにベクタには陣術というものがあり、農業に必要な畑仕事を一切合財行ってくれるそうだ。これは良い職業だと言えよう。
他にも漁業などもあったが、私にはあまり向かなさそうなだった。
「……よし、ベクタでは農家を営むことにするか。ベクタには学校が無いから先生は出来ないし、やるならこれが一番だろう。
後は家の問題だな。家を買うだけの資金があるだろうか――」
ふと気が付くと、私は既に家の前まで来ていた。
時の流れは速いものだ、と改めて痛感した私は、目の前の扉を開けて、すぐさま夕食が立ち並ぶテーブルに着いた。
「先生? そういえば、これからのことは決まりましたの?」
「もぐもぐ……はい、私はベクタへ越そうと思ってます」
「ベクタか……ちなみにフラー先生、住む家はどうするのだね?」ダグラスさんが尋ねた。
「それが……実はまだ決まっていないんです。ベクタで農業を営なもうということは決めたんですけど……」
「えー? じゃあ先生辞めちゃうのー?」コープ君が、やや残念そうに言った。
「ああ。コープ君と別れるのは辛いが、このままここに居座るわけにもいかないからね」
「別にそう気を使わなさらなくても結構ですのに……」
「いえ、ハリアさん。私のプライドとして、成竜である私が他の家に居候するということは、どうも羞恥で仕方が無いのです」
「あらそう……。そういえば、ベクタのセイズモバロ市という所で私の姉が宿を営んでますの。
もしよろしかったら、私が姉に頼んで家を提供しますわ。それが駄目でも、家を貸してくれるはずだわ」
「い、いえ、そんなご迷惑を――」
「フラー先生、前にも言ったが、ワシ達はあなたを一人の家族として受け入れているのだ。
せめて、これぐらいのことはやらせてもらないかな?」
「で、でもそんな……」
「良いんですのよ、先生。少しぐらい、私達にも手伝わせてちょうだい」
マージ一家の手厚い御厚意に、私はそれを素直に受け取ることにした。
やはりこのアズライトの住民は、皆優しい竜ばかりだ。
その後、ハリアさんを通じて、彼女の姉が私の為にベクタの家を提供してくれた。
……今のところ、ことは順調に運んでいる。私はこの流れの良さに、暫し悦に入った。
私はお気に入りのおやつ、ビスマルクドーナツを食べながらハリアさんに尋ねた。
「そういえばハリアさん、ベクタへ行くにはどういった経由で行けばいいんですかな?」
「あ、それなら――」
「ベクタに行くなら、僕がメルキドに相談するよー?」コープ君が、同じくビスマルクドーナツを頬張りながら言った。
「……メルキド?」
「あら、それは良い考えね。メルキドさんは交易商人をやっていて、自分の飛空艇を持っているのよ。
メルキド君に頼めば、きっと先生をベクタまで運んでくれますよ」
「だけど、迷惑になりませんかね?」
「こちらの勝手で日にちを決定するのは迷惑かも知れませんけど、
メルキドさんがベクタに向かう時に、一緒に同乗させてもらえば大丈夫でしょう」
「なるほど……」
(まあただで行けるに越したことはないし、もし大丈夫なら、そうするのが良いかも知れないな)
私はコープ君に頼んで、メルキド君にベクタへ送ってもらう許可を頂くようお願いした。
学校での昼休み、私はいつものようにコープ君と、その友達とで昼食を取っていた。
「あ! そういえばせんせー、メルキドに聞いたんだけど、来月なら一緒にベクタに行っても良いって!」
「おお、そうか。ありがとう、コープ君」
コープ君を見ると、彼の顔には笑みが浮かんでいた――が、その顔には何故か、いつもとは違う”別の”何かが浮かんでいた。
「んぐ……先生、ベクタに、ってどういうこと?」リガウ君が言った。
「あー、実はだね、私はベクタへ越すことにしたんだ」
「――!!!」
周りにいた誰もが愕然とした。
静寂――時の流れが、一瞬だけ凍ったように思えた。
「……どうしたんだね、急にみんな静かになって?」
「だ、だって……ベクタに引っ越すってことは、せんせい、辞めちゃうんでしょ?」エスタ君が悲しげに言った。
他の者達も、エスタ君と同じような憂愁な表情を浮かべていた。
「……あぁ……」
私は、まるで息を漏らすかのようなか細い声で返答し、そして食事の手を休め、暫くみんなから目を逸らすよう顔を俯かせた。
「えぇー!? 先生、辞めちゃうんですか!?」アネイル先生が驚愕の声を発した。
「どうしてまた急に? このまま先生をやっていればいいのに」と、ワグナス先生。
「……私もここへ来て、色々と学びました。私が住んでいた場所とは違い、ここは新しいものばかりでした。
そのおかげで私は、最も難しい課題、私自身の生き方について、ようやく答えを見つけることが出来たのです」
「だけど、どうしてベクタなんです?」
「エルトワ校長、それはあなたが一番分かっている答えかも知れません」
「――! もしかして、フラー先生は肉塊竜が好き――」
「ちち、違います! 私はベクタの料理が食べたいんですよ!」
「……」
職員室中が静かになった。
「――ぷっ……はぁーはっはっは! こ、こりゃ面白い!」
ワグナス先生が腹を抑えながら笑い出した。
「ふ、フラー先生、い、いくらなんでも――クスクス――それが理由ですか!?」
クスクス笑いながらダンターグ先生が言った。
私は思い切り赤面してしまった。こんなに哄笑されたことは、生まれて初めてだった……
「い、いや、そ、そのだな……」
「フラー先生、あなたって堅固で真面目な竜だと思ってましたけど――こんなユーモアも持っていたんですね!」
アネイル先生まで――こりゃもう、訳が分からなくなって来たぞ……
暫く私は顔を俯かせ、職員室中に響く笑い声から意識を遠ざけた。
その時、授業の開始を知らせるチャイムが辺りに木霊した。
「――あらやだ、もう授業の時間じゃない!」エルトワ校長が言った。
「ささ、皆さん、笑うのはもう止めて、早く授業に向かってください」
「あ、ああ、分かりました、こうちょ……ぷっ――」
「ワグナス先生!」
「し、失礼! で、では!」
ワグナス先生が慌てて職員室を出て行った。
「ほら、フラー先生も、顔を赤らめてないで早く授業向かってくださいね」
「は、はい……」
教室に着くと、何故だかいつもと雰囲気が違っていた。
私は先ほどの職員室での失態を頭から追い出し、生徒達に言った。
「どうしたんだ、みんな? いつもの元気が無いじゃないか?」
「だって、先生……来月にはもういなくなっちゃうんでしょう?」
「……まあ、そうだ」
「……」
昼休みの時のように、辺りがしんと静まり返った。
「せんせい……どうして学校を辞めちゃうんですか?」エスタ君が言った。
「そ、それはだな……」
先ほどの職員室のことを思い出すと、どうも理由が言いにくかった。
私は、この問いにどう答えたら言いかと、暫く沈思黙考していた。
すると「もしかして――僕達がだめな生徒だから?」と、別の生徒が言い出した。
その言葉に、他の幾人かの生徒達が反応した。
「そ、そうなの? 先生?」
「いや、その、だな……」
こうなっては仕方が無い……生徒に誤解されるよりかは、真実を述べたマシだ。
「実はな……先生は、前からベクタの料理を食べて見たかったんだ」
再度、教室内に沈黙が生まれた。
暫くすると、教室の片隅から「クスクス」という笑い声が聞こえ始めた。
徐々にその笑いは感染して、あっという間に教室中に広がり、ついにはその声は大きな笑い声へと変わっていった。
「ははは! せ、先生、何ですかその理由は!?」
「や、やだぁ、先生〜。料理が食べたいだけで学校を辞めちゃうなんて!」
「なーんだ、先生も見た目よりユーモアがあるんだね!」
「やっぱ似たもの同士だと気持ちは分かるよ、先生!」リガウ君が言った。
「先生もやっぱり、食べるのが好きなんですね!」
「だから先生はそんな体型になっちゃうんだよ、ハハ!」
「あ、そうだ! 私、いつも見てるよ、先生が学校帰りにビスマルクドーナッツ買ってるの!」
「そうなの? もう先生ったら、甘いものが大好きなんだから!」
皆が私に向かって、雪崩のようにツッコミを入れて来た。ここまで来ると逆に、すがすがしかった。
「まあ、そういうことだ。私はここに来てから、どうも食べることが大好きになってしまったようだな」
と、私は締めくくった。
その後、私が教室中の笑いを抑えようと大奮闘したのは言うまでも無いだろう。
あれから1ヶ月後、とうとうこの日がやって来た――そう、ベクタへの移住だ。
これは自分自身が望んだことなのに、何故かは知らないが今の私の心の奥底には、ぽっかりと穴が開いている気持ちになっていた。
私は最後の授業を終えた。その後は学校の体育館で、先生含む生徒達みんなでお別れ会をした。それはもう大盛り上がり。
だけどそれはお別れ会というよりはむしろ、食事会じゃないのかと思わせる会だった。
しかしそれは、生徒達の私に対する敬愛なる行動だという……そりゃ、この体型じゃあな……
そんなこんなで、私はこの食事会――失礼、もといお別れ会で、みんなと一緒に食べたり話し合ったりした。
学校でこのような雑談をするのは、大抵昼飯の時ぐらいだったので、しかもそれはごく限られたメンバーだったので、
私はこの時初めて、こんなにも長く、また色んな生徒と接することになった。
そして私は遅いながらも、教師は生徒一人一人のことを忠実に理解し、それを幾度も反芻することが重要なのだと感じた。
この行為を早くやっておけば、もしかしたら今まで以上に生徒達と楽しむことが出来たのではないかと、私は少々後悔した。
そんなこんなで、私はこの最後のお別れ会の場において、また新たな知識を詰め込み、やがて会は終わりを告げた。
こんなことを言うのは厚かましいかも知れないが、普通お別れ会というのは、最後にみんながプレゼントを渡してくれるものだと
思っていた。
だが今回のお別れ会は、これと言ってプレゼントも無く、本当に食事と雑談をしただけで終わってしまった。
私は少々物憂げな面持ちで、閑散とした体育館を後にした。
家に着くと、そこにはハリアさんだけがいて、ダグラスさんも、コープ君でさえもいなかった……時間は既に、夕暮れ間近だと言うのに。
「あら? お帰りなさい、先生」
「ただいま、ハリアさん。他のみんなは何処へ?」
「コープはまだ学校で特別授業を受けていて、お父さんは明日のパンの材料を買いに行ったわ」
「そうですか……ちなみにハリアさんも、今から何か御用で?」
私は荷支度を済ませているハリアさんを見つめて言った。
「ええ、これから同窓会が始まりますの。……すみませんね、フラー先生、折角今日旅立つというのに誰も見送ることが出来なくて……」
「あ、いえいえ、気にしないでください。今まで色々とお世話になったんです、それでもう十分ですよ」
「本当に……では私はそろそろ出かけて行きます――あ、あとフラー先生、メルキドさんが飛空艇で夕ご飯を用意しているそうよ?」
「分かりました。ではハリアさん、お元気で」
「フラー先生も、お元気で……」
ハリアさんは家を出て行った。残された私は、旅立ちの時間まで暫し家でくつろいだ。
色々なことがあった。
あんなこと、こんなこと……数え切れないほどの、様々な出来事。
初めてここへ来た時、私はマージ家の食事事情には圧倒された。
さらに学校を訪れ、ワグナスさんやリガウ君など、あのマージ家にも並ぶ、もしくは超える存在を知った。
暫くして、ファクト君とエスタ君に関わる事件に遭遇。その際大怪我をしてしまい、結果病院で入院する破目に……
おかげでこの時、再生医療用のマイクロマシンで入院期間を減らすも、有り余るほどのお見舞いの品、食べ物のおかげで、
私の体は目まぐるしい勢いで太っていった。
ある時は、大食い大会に参加した。
景品は、当時私が所属していたスフィアにとても喜ばれそうな品、情報記憶媒体のデータキューブだった。
その時はまだ、私の体型はぽっちゃり程度――あくまでも自称――だったので、挑戦しても負けるのは目に見えていた。
だから私は、アスターゼ草という食欲増進剤とも呼べるべき薬草を使用した。
おかげで景品を手に入れることには成功したが、その副作用は余りにも大き過ぎた。
私は一度にアスターゼ草を大量摂取した為、その効果が余韻を残し、その後も継続して私の腹を鳴かせ続けたのだ。
後にその余韻は収まったが、その時には既に収拾が付かない程太ってしまった――体重が、あのコープ君よりも何倍にもなったのだ。
その後私はスフィアから脱退し、今を生きることにした。
思いに耽っていると、その時間はとても早く感じる。
これはきっと、主観的時間流が何かしらの影響を受けて変わっているに違いないんだが……
――おっと、昔の自分を嗜んでいたら、ついつい廃絶した職業病も出て来てしまったようだな。
ふと時計を見ると、時は既に出発にちょうどいい時間になっていた。
そろそろ出発か、と誰もいない家で寂しげに呟き、私は家を出た。
向かうは、メルキド君が所有する飛空艇、イシュラスを一時的に停滞させている公園だ。
すっかり夜も更け気味になり、私は暗くなりつつある道を、一人とぼとぼと歩いた。
公園に着くと、上空に飛空艇――これがイシュラスなのだろう――が見えた。
それは、公園の外灯による明かりと、イシュラス自身が放つ微量な光明によって、ファンタスティックな姿を醸し出していた。
一般竜には理解出来ないかも知れないが、私はこういった飛空艇のライトアップを見ると、これこそ”美”だと感じてしまうのだ。
少しばかし気分も高揚した私は、ついに公園へと足を踏み入れた。
――パパパーン!
「うわぁ!」
突然の大音に、私は驚きの声を上げた。
「せんせー! 今までありがとー!」
声が四方八方から聞こえたので、私は辺りをきょろきょろと見回した。
するとそこには、学校での教え子達、先生達、そしてハリアさんとダグラスさんが、私の元へと近付いて来ていた。
「こ、これは?」
「先生のお別れパーティーだよ!」コープ君が言った。
「これを見て!」
コープ君が空に向かって手を上げると、突如、ドーンという大きな音が響いた――花火だ!
明るい空に負けじにと煌々に輝く明るい玉は、私を壮快な気分にさせてくれた。
「さあ、今日はどーんと食べて頂戴ね」ハリアさんが言った。
見ると、ハリアさんはある場所を指し示していて、そこには多くのテーブルがあり、その上には溢れんばかりの料理が置いてあった。
「えっ……でもハリアさん、私は今からイシュラスに乗らないと……」
「何言ってるの、先生。イシュラスはあなたが乗らない限り出発しないのよ、ねぇ、メルキド君?」
笑みを浮かべながら、ハリアさんはとある竜を手で示した。
「どうもフラーさん、俺がメルキドです。時間は敢えて余分に取ったから、安心してくれ」
「君がメルキド君か、どうも初めまして。君にはとても感謝している……本当に、なんとお礼を言ったら良いか――」
「そんな堅苦しいことはやめましょう。折角なんですから、今は”本当”のお別れ会を楽しんでください」
「そうよ、先生。今日は先生の為に沢山料理を用意しておいたんだから、楽しんでくださいな!」
「あ……ありがとうございます!」
私はすぐさま、料理が並ぶテーブルへと向かっていった。
途中通り抜けたテーブルの周りには沢山の竜――おそらくは、この会に参加しているほぼ半数の竜達――がいて、
そして私が目指す、特に大きなテーブルには、既にあのデブ竜一派が陣取っていた。
「せんせー! 早くー!」とコープ君が手を振って、こっちへと拱いていた。
「早くしないと、俺らで全部食べちゃうぞ!」とリガウ君。
私は彼らの無心の食欲を知っていたので、急ぎ足でテーブルへと向かった。
するとそこには、他にもダンターグ先生とワグナス先生がいた。
ただダンターグ先生はまだしも、ワグナス先生が普通に大量の食事を取っていることには驚いた。
「あれ、ワグナス先生? 失礼ですが先生は、確か食事に関して節制をしてるんじゃありませんでしたっけ?」
「ん? ああ、まあこういう会とか催し物の時は、もったいないし、この時ばかしはしっかりと食べるんだ」
(……だからワグナス先生は、あれだけトレーニングをしても体重が減らないんだな)
今更ながら私は、ワグナス先生の運動量と体型の矛盾を理解した。
……確かにワグナス先生の言う通り、こういう時こそ我慢は無用なのかも知れない……
私は今回ばかしはと思い、久々に料理をたらふく食べることにした。
長い、が、私としては短い時間が過ぎた。
テーブルにあった山盛りの料理は、見事なまでに綺麗さっぱり無くなっていた。
これを期に、私の”本当”のお別れ会は幕を閉じた。
……そして、ついに私は飛空艇へと乗り込み、ベクタへと旅立つ時が来た。
私が飛空艇の前に着くと、アネイル先生が生徒達に向かって叫んだ。
「さあ皆さ−ん! フラー先生にプレゼントをあげましょう!」
「はーい!」
教え子達がどっと私の周りに集まってきた。
その中で一番最初にやって来たのは、エスタ君だった。
「せんせい……あの時は――本当にごめんなさい!」
「あー、別に気にしないでも大丈夫だよ、エスタ君」
「これ……がんばって先生のために作ったんです!」
見ると、それは立派なチョコレートケーキだった。
「先生ならきっと、食事の後にデザートが欲しくなるだろうなと思って、エスタ、がんばって作ったんです!」
「は、はは……。それにしても、とても美味しそうなケーキだね。エスタ君、どうもありがとう」
こういう風に私は見られてるのか、と苦笑しつつも、私はこの美味しそうなケーキを見て、自然と笑みがこぼれた。
「先生、俺もあの時はすみませんでした!」ファクト君だった。
「良いんだよ、あれからちゃんと注意をしているようだしな」
「ありがとうございます! 先生、これは俺からのプレゼントです!」
ファクト君は、一辺が50cm程の立方体の箱を持っていた。私はそれを受け取り中を開けると……
「び、ビスマルクドーナッツ?」
「はい。先生がいつもこれを嬉しそうに食べてるんで、きっとこれが好きなんだろうと思ったんです!」
「ありがとう、ファクト君」
大好きなビスマルクドーナッツに、またもや笑みをこぼしつつも、少々この流れが不安になり始めた。
まさかとは思うが――
「先生! 俺からはこれ!」
リガウ君が差し出したのは……あー、案の定大量のクッキーだ――しかもたっぷり砂糖がまぶしてある。
だがそこから漏れる芳しい香りは、何とも私の食欲を刺激した。
「ありがとう、リガウ君」
その後もどしどしと生徒達からプレゼントを貰ったが、大概はお菓子類だった。
だけどその中にも、私の為に新調したベストや、かわいらしい寝巻きなどがあった。
コープ君を除く全生徒からプレゼントを受け取った後、今度は先生達の代表として、エルトワ校長がやって来た。
「フラー先生、私達からは、これを贈呈させて頂きます」
それはなんと――
「わ、私の銅像、ですか?」
「はい。美術担当の方に協力して戴き、これを作ってもらいました」
その像は、顔がふっくらしていて、腕はたるみ、首の無いベストを着た胴体は、でっぷりとお腹が突き出ていた。
足は短躯で太く、尻尾も何とも言えない太さだった。
うーむ……他竜から見ると私はこう見えるのか、と思いを馳せつつ、こんなにも立派な銅像を貰ったことに、私は感極まった。
「そして最後に、マージ家からプレゼントがあります」と、エルトワ校長。
「先生、今までありがとうございました。これは私達からのほんのお礼です」
「ワシとしては、何か”物”をプレゼントした方が良いのでは言ったんだが、コープが全く言うことを聞かなくてな」
「だって、これは絶対先生が喜ぶものだもん!」と、コープ君。
そして手渡して来たのは、今までの中で一番大きな箱だった。
私は中を開けた。するとそこから、これまでとは違った甘い匂いが漂った。
「ん? これは――ドーナッツ?」
「ファクトとかぶっちゃったけど、これはちょっと違うよー」
「実はな、これはコープの手作りドーナッツなのだよ」
「ふむ……コープ君、なかなか美味しそうに出来てるじゃないか」
「へへ、だけどお父さんには敵わないよ」
「だがワシとしては、かなり上出来だと思うぞ?」
「……」
「あれ? 先生、どうかしたんですか?」と、ハリアさんが心配そうに尋ねた。
涙が、私の頬を伝い降りた……
こんなにも、こんなにも素晴らしいプレゼントを貰ったのは、生涯初めてだった……
厳しいスフィアにおいて、このようなことなど一切無かった。
最大限のプレゼントといえば、所長からの”普通の”返答ぐらいだった。
一体何の為に私は仕事をしていたのか?
アズライトでの生活と比べると、一体あの時の私の竜生は何だったのか?
昔の私が、非常に馬鹿馬鹿しく思えた。
スフィアで培った常識は、ここでは殆ど通用しない。
ここには竜々の感情があり、笑みがあり、ありとあらゆる感情表現の手法がスフィアと違っていた。
そのギャップは衝撃的だったが、おかげで私は本当の”幸せ”、途轍もない幸せを感じることが出来た。
こんなにも幸せなこと――本当に、生まれて初めてだ!
私はこうべを垂らし、何とかみんなに涙を見せないようにした。
そして私は、先ほどのハリアさんの問いに答えようとした――が、私は声を発せなかった。
きっと今声を出したら、とんでもなく情けない声が飛び出すだろう。
「せんせー? もしかして、泣いてるの?」コープ君が言った。
「――! そ、そんなこと……グス……そんなこと無いぞ……うぅ……」
「先生が泣いた!? 俺、先生の泣き顔始めて見た!」とリガウ君。
「あらやだ先生、そんな泣かなくても……」とエルトワ校長。
「はい、先生、これで涙を拭いてください」ハリアさんがハンカチを差し出して来た。
私はそれを、顔を俯かせたまま受け取り、涙を拭いた。
「す、すまない……今まで、こんなにも歓迎されたことなんて、生まれて一度も無かったもので……」
「そうなんですか? 随分と、辛い竜生を送って来たんですね」
「……そうなのかも、知れません……」
「……さてと、そろそろ時間じゃないのかね、フラー先生?」と、ダグラスさんが言った。
≪フラーさん、出発なら何時でも出来るから、準備が出来たら乗ってくれ≫
メルキド君が、イシュラスの操縦席のマイクを介して言った。
「そうですね……じゃあ、これで。今まで、本当に……本当に、お世話になりました!」
「先生! またいつかね!」
「せんせー! 今度あったら、また一緒に昼ごはん食べよう!」
「フラー先生! ベクタでもお元気で!」
「お元気で!」
みんなの声が、一つ一つ私の心に染み渡っていった。
私は涙をこらえて、船内の貨物室に入る為の理術エレベータに乗り込んだ。
振り返ると、そこには手を振って、私に別れの合図を示す生徒達、先生達、そしてマージ家の方々がいた。
エレベータが上昇する……
それにつられて、徐々に皆を、皆が立っている地面を、私から遠くへと引き離していった。
――今気付いたのだが、私はこの時初めて、自らの意思で地から足を離していたのだ。
>◆アドニス / 2、ライラック / 3、ヘリオトロープ / 番外、ブルラッシュ